昭和54年01月17日 朝の御理解
御理解 第81節
「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って、向こうへ下りたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」
今朝御心眼に、今はあんなお菓子はあんまり食べる人が少ないですけれども、あの黒棒という、あのお菓子がありましたね、むき菓子のね、黒砂糖でこう、昔はもう馬車引き羊羹ち言いよった(笑)、あれをこう立てて頂くんですよ。それが昨日たまたま、あの山本さんが、あの私が、おうすにあれはは不思議に合うんです、ですからあれを切って出してございました。薄く切って、私が今日頂いたのはこう立てて、丁度何かこう棒を立てたように頂く、結局黒棒なんですね。
ですからそのう、黒棒というのは、辛抱ということだと思うんです。辛抱の辛という字は、辛いとしか書いてあるでしょう、辛い棒です、いわゆる苦労の棒です。ね。ですからお互いまぁ、本当に苦労のし甲斐、辛抱のし甲斐があったと普通、まぁ申しますね、辛抱しぬく、その信心では、私は合楽ではという、と言うた方がいいかもしれませんね、合楽ではそれを辛抱と言わず、黒棒と言わず、ね。
そのまぁ御神愛と頂いて、それを修行と言うわけなんです。ね。だから修行として、有り難く受けるということは、言わばその黒棒が、もう不思議にそのおうすに合いますように、これは私の好きな物という意味でしょうね、お茶は私が好きな物、好きな物にぴったり合う。なら皆さんの好きな物にぴったり、お金が好きな人は、そのお金にぴったりその修行が、寄り添うてくれる。
その修行のおかげでお金に不自由せんようになる。健康が欲しい人は健康に一番相応しい辛抱ということになり、黒棒ということになる、私はお茶が好きだから、お茶にはぴったり合う、そういうことをまあその一本の黒棒からこう、私は暗示を頂いたんです。ね。ですから皆さん、その苦労がね、言わば、苦労であるならば、確かに十里の、もうすぐ、やれやれこれはきつい事じゃったと、いう事になるのじゃないでしょうか。
けれども、これがね有り難い、でそれが修行で、それが登らにゃならば、とても九里半で止められるもんじゃないですよね、止められない。むしろそこに、もうすぐそこに、頂上は見えておるならば、そのいよいよ勇ましい、勇んだ心が生まれてくるだろうと、こう思うです。
昨日は午後から、ここへ着かして頂いておりましたら、只今その、中近畿の先生から電話が掛かってきたと、私共があちらへ参りまして、合楽の十三日会に習わして頂いて、あちらでその時の先生方、方ばかりで、十四日会を創る、泉尾の先生が、のバックで、その若い先生の方達が、そういうその、合楽の十三日会に習わして頂く、いって、丁度その日が十四日でしたから、十四日に終わりましたから、その十四日会という命名。
そして、その会をいよいよ、しかもそれは、教団の言うならば、あらたな教団の、道開けともなるような、その信心と、その会の内容を、願ってのことでございました。からその、電話が掛かってまいりましてから、その合楽で、あのあの時の、あのうビデオが撮ってあるならね、あのう今度二月にあの発会式、初の十四日会があるんです、これはまぁあの時に参加した全国の方達に、いぃ呼びかけて、そしてその会費を集めての今度会、なるらしいんです。
それでその、あれはあの、スライド写真が撮ってあるのを知っておられたんでしょう、それで、あのそれを貸して欲しいと、ところがつい先日、それがあの完成してるんです、ここで、私はまだ見てなかったです、三日間のそれを見事に、じゅっ1時間20分にまとめてね、あのしてあるということを聞いてましたけれど、あの知らん、あの見てなかったから、そりゃおそらく合楽で作ったんだから、合楽のいうならば、宣伝のようなことにばっかりになっておるに違いはないですね。
合楽を中心にして撮っておりましょうから、あのそれ一遍あの、あたり障りがあるといかんから、そりゃ一遍見てみて、そしてから、あの返事をしたらいいだろうと言うので、昨日改めて、あの昨日丁度お参りし合わしておられた、あぁ山口の西井地教会の先生あたりもご一緒に見せてもらいました。丁度1時間20分、もう見事に出けてるです。もう本当にあの時の感激が、こう感じられるような、もう実に素晴らしいまとめ方がしてあって、そのうそれをまあ見せて頂いたところが、不思議な事があるんです。
そのスライド写真の合間合間にね、これはカラーではなくてそのう白黒のですけれども、機関車がトンネルからもうモクモクと煙を吐いて出ておる写真、それから鉄橋の上を走っておる、そのモクモクとそれも昔の機関車ですよね、あれは引いてその客車を引いて通っておる所が、もう合間合間に入れてあるんですよ、こげな事すりゃあんた全然関係なかつに、なんでこんなもんば入れとるだろうかと私は思いましたけれどね。
私は後から考えさして頂いて、「ははぁこれが今の合楽の姿だな」と思ったんです、ね。ここでは、私がまだ修行中の時分に、あの石炭を真っ黒に、ピラミット型にお三方に乗せて、しかも、あの、三方の三つの穴があると、こちらへ向けど、反対の方を向けて、私がまだ、御心眼の頂き始めの頃で、何が何やら分からんなりにはっきり、福岡の教会で頂いたことがあるお話を良くいたしますね。どういうことだろうかと思うた、そん時は分からなかった。
ところが神様が、わたくしっ、神様にお供えするじゃなくて、私にお供えして下さっておるわけです反対にこう向けて、言うならば、石炭を私にお供えして下さるということは、私に苦労を下さるということなんです、だから、「これを燃やせ」ね、水ならお湯にもなるだろう、ね、米なら飯(まま)にもなるだろう、ね、だからこの石炭を大切にして行けよ、神様が私に供えて下さっ、私に下さった、言うなら今日の言葉で言うと、神様が下さったご修行として有り難く受けて行けよということ。
そりゃあぁた石炭ですから、モクモクと煙が出て、ね、あたりに迷惑をかけるような事もございました、今の合楽の場合もやっぱそうでしょう、それこそニンニク臭がプンプンで、嫌いな人は迷惑をしておるような場合もございましょうけれども、これに沢山の人が、言うならば客車に乗って、おかげを頂いておる、その機関車がモクモクとして、こうやってそのモクモクと、言うなら真っ黒い煙を吐いておるというのを見せて。
合楽の、生き生きとした活動の状態であろうと、私は思うたです。どういう意味であれを作成した人達が、その、全然関係のない写真を、その、ところどころにその、機関車の写真を入れておるか、私は分かりません、聞いてもおらんけども、私はそう頂いたんです、ははぁこれが、合楽の言うならば姿だ、これがだんだんおかげを頂いて、それこそスイッチ一つで。
まぁ電気で動くような、おかげにも段々なってこなければならない、けれども。今のところは、合楽全体が、モクモクと出る真っ黒い煙のような、苦労を修行を、皆んなしておる時であるとこう思うんです。ですからそれを、なら生きた働きの現世になるのですから、有り難く頂かなきゃならない、ということになるのじゃないでしょうか。ね。
昨日、大橋の、あの梅屋の、由美子さんが、お参りをしてまいりました、そして、高校時代のお友達をお導きして参っております。それがまぁ周囲の反対を押し切って結婚したんだそうですけれども、そのお母さんがある所に参ってその二人の結婚を、まあ占うてもらった、そしたら、主人は火の性、家内は水の性だから、もうこれは絶対いけないと言われておったけれども、結婚したとこう言う。
成程大変まぁ喧嘩が絶えないとこう言う、子供は二人おる、なんとかもう別れたらいいだろうか、どうということで、その悩みを由美子さんにまあ訴えたね、友達同士ですから、それでなら私がお参りしよるとこへ一遍参ってお伺いしなさいという、訳だったんです。成程水の性と、私は水の性がどげんとか、火の性がどげんとか知らんけれども、成程水の性と火の性となんならば、そりゃハァと燃え上がったらシャンと消やしてしまうもんね水が、だからこれはやっぱ、いくまいっち私がもっ言いました。
けれどもね、ここに信心をさせて頂いて、お取次ぎを頂いて、お取次ぎのはがまと言うか、鍋でも、ここにお取次ぎの働きとはそういうもんだ、だからこれに水を入れて、その鍋にかけたら、水ならお湯になるだろう、米なら飯になるだろうと、返って水の性と火の性ということが、信心によって返っておかげになると言うたら、そげな事があるじゃろかっちいうような顔をしてね、だからこのお取次ぎ、御結界、神様と氏子の間を、取次がせて頂く、ね、これは言うならお取次ぎを願われる。
すと、またお取次ぎを頂いて帰る、そこに言うならば、水の性と、火の性が言うならば、消えておったり、ね、その燃えておれば、消してしまうと言った様なことが、水にっ、水が湯になり、米が飯(まま)になると言う様な返って、素晴らしいおかげになるだろうということが、意味が良く分からなかったようでした、けれども、その説明をさして頂いたことでした。ね。
だから本当に世の中にはね、もう本当に苦労を苦労として、一生火の性水の性で終わって、言うならば、うだつが上がらなかったという夫婦も、まぁ夫婦だけではないでしょうけれども、そんな人がいっぱいあるだろうと、おそらく苦労をしても苦労をしても、苦労のし甲斐のない苦労をしておる人がどのくらいあるやら分かりません、それを信心さして頂く者は、苦労を苦労とせず修行とするという生き方、ここんところを一つ本気で分からなきゃいけません。
それにはやはり神様の心が分からにゃいけん、神様が言うならば、親と子の情というものが分かってくると、親が憎うして叩く親がない事が分かってくるとです、神様がこの様にして私を育てて下さるという、それこそ有り難涙がこぼれてくるんだ、神様がこの様にして私を育てて下さると思うたら、有り難うなってくる、そういう信心を身に付ける限りですね、私はいやもうとにかく十里の坂を九里半登ったからと、やれやれ安心する事はない、いよいよ持って楽しい有り難いと言う事になるのじゃないでしょうか。
昨日は正月からある教会の御信者さん方が一家でお参りをしてきておる、丁度私がお会い出来なかったから、あの若先生と光昭とと幹三郎と栄四郎と、その四人で「私共が親先生、まっあぁ神様が私共四人の兄弟を士農工商と言うて下さる、ですからまぁ私共四人をあわせると親先生がこうして出来上がるようなもんですから、私共の話を聞いて下さい」と言うてその応接間で、まぁ四人が一生懸命お話しをしたそうです。
昨日その方からお礼の手紙が来てるんですよ、沢山な御造営費ば送ってきとるです、ね、それからお初穂送ってきてるです、ね、そしてその手紙に書いてあることがです、もうとにかく若先生方の御信心のお話を聞かせて頂いておったら、もう修行が楽しゅうして有り難うして愉快で、リズムに乗ってるから有り難いという話をしたそうです、ね、それを目(ま)の当たりに見せて頂いて感動したと言う事が書いてあるです、ね。だから修行というものは嬉しゅうして有り難うしてと言う事にならにゃダメなんです。
それがなら修行の本質と言うか、神様の御心と言うか、その心が分かって、修行の本質が分かってくる、それでそれが、辛くもある、苦しくもあろうけれども、それが、ね、苦しいです、けれども有り難いということになってくるです、心が育てられよるそれによって、ね。なるほど四人の息子達が、私一人ぐらいのそのう、御用をさせて頂いたなという風に思う、ね。始めて参ってきて、そういうならそのまぁ、あぁある宗教界にお参り、お参りをなさっておられる方達ですから、ね。
誰でも自分の教会には御用したいけれども、他所の教会には中々そんな、しかもあの御造営のことを聞いてから、しかも、少しばかりのお金じゃない、沢山のお金を御造営費として、お初穂として、二つ送って来てるです。ね。それがどういう事かと言うと、その修行が楽しゅうして、しかも愉快にまでなるという話を聞いて、もう先生方のその姿を見てからです、ははぁ信心修行というものはこんなに有り難く、楽しゅうならなければいけないもんだということに感動したとあります、ね。
皆さん、だから今合楽ではね、それこそモクモクと言うならば、黒煙を吐いて走っておる機関車のようなものです、なら皆さんの一人一人にも、そういう難儀なら、難儀と言えば難儀、苦労と言やぁ苦労、黒棒と言やぁ黒棒だけれども、それをなら辛抱と頂き、その辛抱を、信心辛抱ということにならせて頂いたら、それこそ、おうすにはこの黒棒が一番ぴったり合うように、皆さんが一番求めておられる、お金の好きな人には、そのお金にぴったり添うような修行が出来るということになるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。